2010年2月16日火曜日

[思考]街場の大阪論

「街場の大阪論」著:江弘毅

以前、1週間で2冊を読むという、自分史上最速の読書週間がありました。前回書いた馬場氏の本は3〜4時間、この本は、残りの日の数十分〜数時間で読んだものです。何せ、関西弁なので、関東の人間からすると、やはり単純にも笑える(新鮮)ので、読む欲求が生まれました。今後、本を読むなら、関西の人が関西弁で書いたものが、良さそうです。(笑)

この本は、とにかく、ひたすら、ご近所づきあい的なもののほうがリアリティあるじゃないか! と、終始訴え続ける感じです。僕の両国の友人のNくんは、5年以上前からそのような事を考えてて、実家を継ぐ事にし、地元で生活していく事を実践しています。

自分もそう思います。あこがれます。が、実行できているのかというと、微妙だなと思ってます。慣れればいいんでしょうけどね。前の記事でも書きましたが、自分が育ったのは、下町を超えてしまっているエリアで、さらに、中学、高校時代については、仙台の住宅地に住んでいたので、ご近所付き合いはあるにしろ、近所に商店街があったわけでもないので、なかなか、地元のサイクルに加わっている感じではないです。

また、大して稼いでないので、10円20円コストを攻めるなら、どうしてもスーパーに行ってしまうのも、現実です。仕事が終わって買い物となると、20時以降になるので、やはりそうなります。

これが、都会的消費システムなのかと。時間とコスト。今後、生活パターンは変わってくるので、この「近所付き合い」的生活も実践してみたいものです。


昨年は半月程、淡路島に居た事もあり、関西文化圏には興味があります。それ以前からも、関西(だけではないでしょうけど)には、コミュニケーションの術を子供の頃から持ち合わせていたり、東京にはない独自ルールがたくさんあったり、これらこそ文化的で、そのサイクルの中でうまく人生が過ごしていけるなら、それはうらやましい事だなと思っていました。

いわゆる、ボケ・ツッコミの笑いの中に、本音もうまく入っていたり、コミュニケーションとしての遊びが常にあるというのは、ただ単純に、必要な要件を伝える→用を済ませる、というような、なるべく時間をかけないようなコミュニケーションに比べて、どう応えてやろうかという、常に頭を働かせる感じが、とてもクリエイティブであると、それが日常であるというのは、ものすごく素敵なことです。

当然、東京にもご近所付き合いはあるし、独自ルールもあると思うのですが、グローバル的東京も身近にあるので、意識していかないと見分けがつかなくて、流されてしまう感じがあります。

この本では、大阪でも東京と同じようなグローバルスタンダード的、TV的感覚の人が多いということが書いてあります。特におかしかったのは、ある大型量販店の店員(大阪人)が標準語みたいな言葉を話しているが、厳密にはイントネーションが違うので、どこにも属さない言葉を話している、ということがあると。東京では、東京弁と標準語の違いは、あまりないから目立たないですが、大阪弁と標準語は明らかに違って、さらに東京弁でもない。

これはもしかすると、東京より大阪の方が、そのような消費効率主義的感覚は目立ちやすい、という事を、表しているのかもしれません。

安直な考えしかできませんが、TV番組は東京で制作されているものが多いです。東京ローカルの番組も同じような制作者によって制作されていると思われるので、発想が全国ネット的感覚になっているといえるかもしれません。

または、街の構造。山手線の主要駅周辺、銀座、表参道、六本木ヒルズ、などという場所があります。ここにはおそらく、ある程度の経済国の首都にはよくあるお店が、並んでいて、それらの地域に通っていれば、広告やら直接目にするものがそのようなものなので、日常生活を構成するものが、グローバル的な物事である、ということがあります。

そこで話されているのは、グローバル的東京弁(自分も境目はよくわからない)で、それに似た言葉で、生活もしている。

マンションに住み、鉄道を利用して会社へ勤める。極端ですが、普段見ているものは、

マンション→(駅前の商店街)→駅→電車内の広告→グローバル的街並→会社→グローバル的街並→電車内の広告→駅→スーパー→マンション

このパターンであると「ご近所付き合い」は、このマンションと会社の間、特に会社→マンションの間に行われるしかない。

この間に、例えば地元のサッカーチームに入っているとか、商店街で買い物ができるとか、それらは現代的なご近所づきあいになるかと思います。もしくは、知人づてのコミュニティに居る状態は、物理的に近所でなくても、「精神的にご近所付き合い」といえるかもしれません。仕事中にも知人づての取引先があると、ご近所付き合いになるのかと思います。

しかし、終電まで仕事っていう状態になると、週末しか時間がない訳で、週末くらいうちに居るか、どこか行こうということになると、ご近所付き合いはなくなってしまいます。または、時間はあっても、ひたすら買い物が趣味な状態、お客様として迎えられる状況に居続ける(接客相手が知人ではない)状態になると、これもご近所付き合いがありません。これは、近所であっても、“シアトル系”やチェーン店で、顔見知りの店員が居なければそういうことになります。

これが「グローバル語で話し、生活は消費システム」という事になる。東京ではよくありそうな生活パターン。

ただ、打ち合わせをするとして、経費節減のために安くコーヒーを頼んで居場所を確保する、これはよくやる事です。これが、なかなか難しいなと。特に資金に全く余裕がない自分の状態では、DとかMに行くしかないのです。

DとかMの価格を下回れる個人商店はまずないでしょうし。これが、目下問題。
(もしかして2/20に行われるSuitendo でヒントがもらえるかも)

じゃあ田舎ならどうするんだという時には、きっとお互いの事務所なりでやるんでしょうね。自分でコーヒー入れて打ち合わせ(なるほど、これは結構良さそう)。

DとかMとか必要ないのか?ただ、仕事の場所が自分の拠点に近ければいいですが、Awayな場所での作業となれば、やはりDとかMとか探します。飯だったら、SZYか。

しかし、田舎の場合、現代では自動車で移動します。感覚でしかないですが、一人当たりのエネルギー使用量を考えると、田舎生活でもそれなりにエネルギー使ってるんじゃないかと思います。

そもそもこの点、移動距離が少なくて済み、物流の効率をよくしたものが“東京の機能”であり、都市の意義みたいなものだと思います。後は、東京での“暮らし方”の問題ということになるのでしょうか。


何か、世の中で「あれ欲しいな」とか「これしたいな」とかいう欲求は「消費」が多い気がします。それらは、都市で生活する上で生まれてきたものなのかもしれません。お菓子(メーカーもの)にしたって、コンビニで買ってすぐ食べられるようにしたもの、という感じでしょうし、缶コーヒーやペットボトルのジュースも、自分で作れば必要はないものです(その材料は必要ですが)。時間がかかる、手間がかかるからそれらが必要。都市で生活することの極みは、それらを省くことにあります。単純に都市生活をしていると、そのようになってしまう。

ただ、ラーメンとかレストランで食べる料理は、少し変わってきて、そこに“オリジナル”のものがあって“人”が居れば、例えお客様であっても、本当の意味で“いらっしゃいませ”と会話してくれるようなところであれば、これが付き合いになるので、これは「消費」とは違うのではないかと思います。この選択肢が多いのは都市のいいところです。


都市で生れ育ったがために、そもそも「消費が生活」な状態の人は多いと思います。余計な事を極力省いて、分業に徹する状態。ここにコミュニケーションがなくなってしまうと、人間的感情がなくなるので、自分が崩れても助けてもらえない。これが今起きている状況なのかなと思います。

田舎の生活や昔ながらのご近所付き合いは、そもそも選択肢がない状態なので、人間関係がうまく行っていれば、理想的ですが、失敗すると面倒なことにもなる。これが都市だと、避けるという選択肢もあるので、これが、良いのか悪いのか。消費的な人間関係は、助けてもらえなくなるので、良くないと思います。ただ、どうしたってそりが合わない人がいるのも事実なので、この場合、選択肢があったほうが、自分のためかもしれません。


都市というシステムを手に現代人は、このシステムを「どう使っていくのか」が、これからの時代なのかもしれません。

2 件のコメント:

  1. 都市でシステムが出来上がってることはいいことだし、だからこそ省けること、成り立つ部分もあると思うんだけど、そこで失ってる部分が災害時とかにドバッと出てくると思うんだよね。
    だからこそ、地域でつながっておくことを忘れちゃ行けない、大事にしなきゃいけないと思ってます。

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  2. kijiありがとう そうね。「精神的ご近所」だと災害時とかインフラがなくなったときは「物理的ご近所」が結果的に必要になるんだな。特に地震のある日本だからこそ「物理的ご近所」は大事だね。なるほど、人間が物体である以上は、これは避けられないね。

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