2011年4月16日土曜日

[感じた事] 今私たちにできる事は本当に小さい(けど・・・)

んー。

まず、事実のご報告。
14日、15日と、石巻市のボランティアに参加してきました。アーティストのタノタイガさんの情報もあり、受け入れ態勢がしっかりしていて、初心者でもわかりやすいので、参加してきました。

タノタイガさんのブログ

いろいろ事情が掲載されていますので、ぜひ見てみてください。4/6あたりから、詳しく載っています。基本的には4/7の記事と僕の時も変わっていませんでした。


石巻市のボランティアの拠点は、石巻専修大学です。
受付について「ボランティア保険」は、自分の居住地の社会福祉協議会で入っておくのが基本という事。
現地でも入れますが、たぶん、準備して行った方が、先方の負担が軽くなるんじゃないかと思います。僕は台東区で加入して向かいました。その場で発行され、次の日から年度いっぱい有効。振込のために郵便局に一度行くので、その時間は予めみておいた方がいいです。

予め準備するものリスト
・マスク(なるべくしっかりしたものがおすすめ)
・帽子or汗対策のタオルなど(頭ぶつけたときの緩衝にも)
・ゴム手袋(作業用のざらざらしたもの)
・軍手(ゴム手袋の内側用、汗対策)
・長靴(僕は作業靴型、つま先に鉄板は行ってるやつ。底はスパイク的なもの。)
・長袖(泥がついてしまった物をよく運びます。ケガ予防も。)
・ウィンドブレーカーなど(僕はスノボスーツ使用しました。)
・昼食(仙台などで調達、石巻でも可。)
・水など(これからは暑いので1リットルくらいあるといいかも。)
・携帯電話(緊急地震速報のために。鳴ったら即安全確保。)
・ゴミ袋(多めに、自分の汚れた道具などを入れておくために。)
・(できれば)ヘルメット

こちらも参考になりました。
石巻市のボランティアセンターのサイトもご確認を。様子を確認するために前日に電話するのもありみたいです。

で、一日目は、海からは割と内陸に入った石巻バイパス辺り、川を上った津波の被害を受けたお宅の1Fの片付けでした。失礼かもしれませんが、わかりやすく伝えると、街中が水槽の中に入ってしまったという感じ。一ヶ月経っても、家の中に水が残っている。




家の方々は、想像よりも雰囲気が明るくて、少しほっとしました(皆さん強いんです)。1Fにある水に浸ってしまったものは、全て処分するとの事でした。ひたすら、ゴミ袋に家財を入れていく、運び出す。タンスの服が水を吸っていて重くなっている。津波があった11日から家の中は時間が止まっていました。物の多さは生活感を物語る。しかし、泥だらけ。畳は水を吸うと、大人4人でも重い。ガラスの破片も散っている。燃えるもの、燃えないものをわけながら、片付けていきます。幸いに天気がよくて、ただ、青空を背景にした家財が空しい。


ボランティアはだいたい6〜9人程度のチームで動くようです。この日のリーダーはまだ20歳前の若者です。地元の子で、一番頼りがいあって、素晴らしかった。


石巻で出たごみは、今回の震災対策のための集積地に運ばれるそうです。100年分のごみの量だそうです。

石巻では、キャンプもできます。僕は友人知人に会うために、夜は仙台に戻りました。物も仙台中心部なら基本不足ありませんので、その意味でも。(でも仙台にいながら車中泊。意外にHONDA FITは居心地がよく。後部座席をフラットにして、寝袋で寝てました。
移動は、とにかく行きも帰りも、三陸道は渋滞。電車もしばらく走らないし、支援車両も多いです。一般車は時間を見て、石巻に行く時は仙台は6時台前半に出ないと混みます。できるなら一般道で。45号線は、そんなに渋滞しません。

仙台駅と石巻専修大学は、ボランティアバス、有料の宮城交通バスもあります。
自動車で乗り込む場合は、作業時に使用するつもりで(受付で申し出ましょう)。荷物スペースもあるといいです。道具を載せます。また、夕方以降は車がないボランティアさんの足(買い出し等)として協力してあげてください。

二日目、渡波町という石巻市では被害がひどい地域。

海に近く、こんなに水面近いのかと驚きました。

聞けば、70cm超地盤沈下したそうです。そして、昼にはこんな感じ。
調べたら、明日(16日)から大潮で、高潮の警戒情報が出ていました。
畳を出し、泥を掃き出し、最低限の作業をして継続扱いということで、昼過ぎに切り上げ。
二日間のボランティアの予定は、少し早く終わりました。


賛否の程はあるかと思いますが、石巻まで来ていますし、もう少し知っておこうと思い、女川まで足を延ばしました。途中は、それ程ひどくはないですが、いよいよ女川というところで、、、

女川港を臨んでいます。

少し左に。建物は女川町役場です。

女川バイパスを高台から臨む。


ここからは感情的な事。
東京から仙台へ東北道で向かいました。福島は高速とはいえ、路面が波打ってるという情報。さあ、福島県という県境の看板を過ぎたとたん、防音壁が崩れている。(何もりちぎに。。。)ここから、被害を目の当たりにし始めます。NHKラジオで、緊急地震速報を警戒しながら進みました。

路面波打つ東北道を走る。夕方だったので、対向車線は、いくつもの警察車両集団とすれ違います。仙台南ICで降り、286号で仙台市内を目指しましたが、目立った被害は見受けられません。
一安心。
段差は所々あるけど。紳士服屋の店内照明は、いまや東京じゃあり得ない明るさだったし。

中心部の駐車場で一泊して、仙台東部道路から三陸道へ。仙台市は東部道路より東で津波被害。高くなっているので、海岸線まで見えました。TVで見ていた光景を初めて目にしました。
ついに来た。

石巻の市街地に入るといよいよ、津波被害地を走ります。道にこびりついている泥で実感。乾いた埃が舞っています。マスクはあった方がいい。回収を待つ、家財が道の両脇に並びます。石巻駅周辺も見ましたが、とにかく、一ヶ月経ったとは思えない。そして、何年かかるんだという感じ。

ひと月、全国民が三陸に集合して、片付ける、それくらいの改革が必要と思わせます。
石巻でもそんな感じ。がれきの高さも、基本、人の目線の高さ程度。でも、これは、三陸の被害の序の口。

そして、女川。3Fくらいまでの高さで、壊滅しています。目に入ってくる景色が、裁ききれなくて。とにかく圧倒されてしまう。一気に、いろんな事を考えさせられてしまって、頭がパンクしました。変な汗をかいて、自分は何をしに来たんだと思って、居てはいけないと思い、引き返しました。車の中でうめくしかなかった。

ものすごい事実が広がっているんです。現状、宮城では南部〜石巻の沿岸はボランティアが入れるよう(未確認、だいたい聞く話しでは。)ですが、それよりも奥は今は自衛隊の総力レベルなのでは。もう一ヶ月が過ぎたんです。次を始めるのに、見通しなんてつけられない、というのが本音だと思います。

この現実の大きさに「今私たちにできる事」といって、東京で想像してやれること。
これは本当にちっぽけな事なんだと痛感しました。
メディアを通じて伝わるのは、数十分、数百分の一、、、。計り知れない想像をしても、わからないと思います。それでも、支援していかなければ、いつまでたっても次に進めないのです。そのような覚悟を、心のどこかに持って、そして一生生きていく必要があります。

同じ時代に生活しています。ぜひ、お手伝いに現地に来て下さい。地続きの土地でひどい状況が広がっています。最初は家の片付けでさえ、取りかかる時は大変だなぁと思いました。それでも9人でやっていれば、その日に目標は達成できて、苦しさはありません。結束して作業していけば、気は楽に進んでいけるんです。


またレポートに戻りますが、
女川から仙台に戻るのに、野蒜を通って帰ってきました。ここも、手がついていないのではないかというくらい、惨状が広がっています。申し訳なくて、写真は撮りませんでした。自分の記憶に留め、人に話しをして伝えていきたいと思います。

松島は被害が小さいそうです。このような大災害があっても、このように残ってきたのかなあと思わせられました。素晴らしいところです。七ヶ浜は、丘の上と下のギャップがあまりにもある。塩釜の中の方までは、ちょっとわかりません。45号線辺りを通っていくだけで、被害があったことはわかります。

そして仙台港の北にたどりつき、まだ日があったので、東部道路より東側の閖上に抜ける道路を走ってみました。ここは、、、。
語弊がないように。確かに、もともと田んぼ地帯ではあるんです。

荒浜小学校あたりはこんな感じ。


逆行で市街地が見えないのが憎い。

今日仙台は桜が満開になったそうです。


被害の範囲はとにかく広いですね。そして、その場所毎に事情があります。
全国ニュースは、福島の放射能問題がトップに来ます。福島も大変な状況です。東京より福島に近い宮城では津波被害をどう片付けるのか、奮闘しています。茨城も同様なのかと思います。他の被災地域も。

僕も含めて、帰る場所が無事な方々は、それぞれゆかりがある地に、ボランティアに行って少しだけでもお手伝いして、様子を知って、戻って友人に話をする。そして、それを聞いた人々がまた行動する。この連鎖が必要なんじゃないかと思います。

否が応でも、次の時代に突入してしまったのではないでしょうか。やるしかないんです。共に生きていきましょう。

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